旅館の歴史

「創業当時の御母衣旅館 昭和34年頃」
昭和27年の
御母衣ダムの建設にともない
湖底に沈んだ集落の山師の邸宅を移築。
以来、
家族代々旅館を営んでおります。

御母衣ダムと湖底に沈んだ村

「その昔 白川村は陸の孤島と言われていました」当時日本経済は活性化に向かっており、一層の経済発展には電力の供給が不可欠であった。
また民間の電力需要も急上昇していたが、発電施設が絶対的に不足していたため,電力の需要と供給が著しく不均衡な状態に陥っており、慢性的な電力不足による度々の停電に悩まされていた。安定した電力供給は日本経済の発展と治安維持の両面で喫緊の課題となり、早急な電力開発は国策にもなっていた。

御母衣ダムの建設された地域は白川村と大野郡荘川村にまたがる。かつてコメの収穫がほとんど見込まれなかった飛騨国において、この地域は貴重な穀倉地帯であり、かつ木材運搬などで豊かな土地柄であったため、水没予定地の住民は猛然とダム建設計画に反対していた。ダム建設に伴い174世帯・230戸が水没し約1,200人が移転を余儀無くされた。電源開発副総裁である藤井崇治は現地を訪問し、住民に対し『幸福の覚書』という補償交渉の基本姿勢を提示。

「渇水期の御母衣ダム 昔の貯木場の跡 林業が盛んだったことを偲ばせます」「御母衣ダムの建設によって、立ち退きの余儀ない状況にあいなった時は、 貴殿が現在以上に幸福と考えられる方策を我社は責任をもって樹立し、 これを実行することを約束する。」こうして、東洋一のロックフィル式ダムといわれた御母衣ダムが完成し、移築された邸宅で御母衣旅館がスタートしたのです。

<引用ウィキペディア>